はじめまして、森開こゆきと申します。
森開、は、「もりかい」と読みます。
音訓の組み合わせ、珍しいですよね。
奈良県に本家があるらしく、その近くに八咫烏神社があることから
それを守っていたとか、いないとか。
祖先が”森を開いた”から森開、かと思いきやそうではなくて、
江戸時代に「あそこの森を開くとこの家はもっと栄える」と、おばあちゃんが遺言を残したことで「森開」になったとか、なってないとか(義父談より)。
こゆき、は、わたしが生まれたその日に小雪が降っていたから、
と聞いていますが、名前の理由を聞くと決まって父は
「なんとなく、だね」とあえて理由を明確にしなかった。
その当時はもやもやしたものだが、いま思うと、
とても本質的ななにかを感じる。
愛とも言えそうだけど、どうだろう。
4人姉妹で
はるか、こゆき、なつみ、さくら、と
みんな”なんとなく直感的に付けられた名前”であることは間違いなさそうだ。
実家がパン屋さんなので、
この話をすると決まって「からすのパンやさん」の
チョコちゃん、りんごちゃん、レモンちゃん、おもちちゃん
を思い出す。
我が家がモデルなのかしら(それはちがう)。
さて、けさの話をさせてください。
とある記事(いずれ書きたい)がきっかけで
「クィア(英:Queer)」という言葉の広義と出会いました。
「不思議な」「風変わりな」「奇妙な」などを表す言葉。同性愛者への侮蔑語でもあったが、1990年代以降は性的少数者や、LGBTのどれにもにあてはまらない性的なアウトサイダー全体をも包括する用語として使われている。
(引用:クィア - Wikipedia)
すごく惹きつけられるものがあり、ひとりときめいておりました。
LGBTQの「Q」である「Qestioning」の同義であるばかりではなかったのですね。
それだけにとどまらない、以下の文章が続きます。
文学研究者の竹村和子は、クィアという言葉が、ファッショナブルに消費される可能性について、「変態」という常ならざるという立場を積極的に活かして、「変態理論」という訳も可能であることについて述べている(小森陽一 『研究する意味』、東京図書、2003年)。
「変態」という常ならざるという立場を積極的に活かす・・・!!
はい、もういいですね、なんでしょう、好きです。もう。
きっとわたしは、女性のエンパワメントを信じる「フェミニスト」であるのだろうと思うのですが、これからは「クィア」でもあるのだ、と胸を張って言えそうです。
現在の日本においては、英語圏におけるQueerという語の毒々しさ、それをあえて逆手にとるという戦略的な意味合いが薄れ、性的少数者やLGBTと同義か、ほとんど区別されない形で雑に用いられがちである
かつて侮蔑後として使われていた”毒々しさ”や、
”それをあえて逆手にとるという戦略的な意味合い”こそ
「クィア」の魅力であると思うので、共有していきたいな、と思いました。
ここまでつらつらと文章を書いてきましたが、
文字数を気にせず文章が書ける、というのはなんて楽しいのかしら、と
つよく実感しております・・・。
なんとなくブログを開設しましたが、
それが大きな理由のひとつなのです。
日ごろ文章というのは各種SNS(TwitterやInstagram)にて書いているのですが、
140文字でおさめるの大変なり、、というのと、
もう少し長く書いてみたくなった、というのと、
どうしても、流れていってしまう情報を
すこしでもストックしておける場所がほしいな、と思ったからです。
不慣れな点などあるかもしれませんが、何卒ご理解いただけますと幸いです。
そういえば、ブログのタイトルについて触れさせてください。
ブログタイトルの「KILIG(キリグ)」というのは、
「おなかの中に蝶が舞っている気分。たいてい、ロマンチックなことや、すてきなことが起きたときに感じる。」
という意味をもつ言葉なんだそうです。
(エラ・フランシス・サンダース 前田まゆみ訳『翻訳できない 世界のことば』より)
なんて素敵なんだろう、たしかに身に覚えがあるし、
蝶が舞っているときというのは、見える世界も華やいでいるな・・・
こんな気持ちのおすそ分けができたら最高だな・・・と思って、
タイトルの名前にしました。
この蝶たちに蜜をやるのは・・・つまり対象は、
人とは限らず、モノだったり概念だったりしますね。
わたしは色んなものから蜜をいただく天才なのかもしれないと、
最近気が付いたところなのです。
まぁ、そんなこんなで、
わたしの蝶を一羽でもおすそ分けする気持ちで記事を書いていきたいな、
と思っているんです。
なんせ、わたしのおなかの中には蝶が舞いすぎていて
少しばかり困っているほどなのですから。
では今後ともゆるりとお付き合いください、失礼します。
こゆき